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ぐるりみて歩きの記事一覧

2008/03/31 UPDATE

太宰府天満宮

■菅原道真公 京都から大宰府へ
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菅原道真公は、学問を盛んにという政策であった嵯峨天皇(さがてんのう)時代の845年、文章博士(もんじょうはかせ)と呼ばれる家系に生まれた。なんと5歳で和歌を詠み、その後も驚異的ともいえる文学の習得ぶりに、周囲の人々からは神童と呼ばれていたという。
讃岐守という地方官に任命された際には、住民の信任を集める人徳ぶりも発揮。宇多天皇からの信任は大変厚かったが、ある日、そのときの醍醐天皇(だいごてんのう)失脚を画策したという、いわゆるデマが流された。藤原一門と公卿たちが菅原道真公を追放しようとしたことと伝えられているが、計画は見事に成功し、太宰府左遷となったのである。妻は京に置き止められ、その心中は穏やかではなかっただろう。当時は劣悪な環境であった太宰府、菅原公はそれでも国家の平和と天皇家の安泰を祈る謹慎の日々だったという。その後、都では菅原道真公を左遷に追いやった人々が次々に倒れるといったことが発生。宇多上皇による左遷取り消しの訴えを、天皇へ取り次がなかったという蔵人頭はなんと落雷で死亡、道真を太宰府に追いやった張本人と目される、左大臣は39歳の若さで急死と、都では菅原道真公の怨念の仕業と噂が流れた。その後、天皇家の誤解も解けたのか、官位も戻りなおも出世(最終的には左大臣正一位に)したことや、菅原道真公を祀った京都の北野天満宮が建立されたことなどは、恐怖を鎮めるために行われたと言われている。


■道真公と飛び梅
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太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらみちざね)公(菅公)の御墓所の上に社殿を造営して、その神霊を御奉祀する神社で、「学問の神」「至誠の神」として世の崇敬を集めている。太境内に入ると右側の老樟下に『東風吹かばにおいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ』菅公御神詠の歌碑が早春の梅花匂う参道に向かって建立され、御神徳を慕って詣で来る人々に、なつかしく仰がれる。
梅花を愛した菅公が、大宰府へ西下の時、はるばるとあとを慕って一夜のうちに菅公のもとに飛んできたといわれる「飛梅伝説」。御本殿の右前の御神木『飛梅』は、千有余年たった今日も毎年神苑で最初の清香の花を咲かせ「飛梅さま」と愛されている。
今太宰府天満宮には全国各地より天神様に献げられた梅(これを献梅という)が197種類。極早咲・早咲・本咲・遅咲・極遅咲とあり、1月後半から4月上旬まで梅の花を楽しめる。梅の咲くころの3月第1日曜日の「曲水の宴」は、曲がりくねった溝の上流より盃を流し、自分の所に盃が来るまでに和歌を1首作るという優雅な行事。平安時代の十二単などの衣装もなかなか優雅な趣である。


■延壽王院
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安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊で、宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜わる。慶応元年(1754年)から約三年間、朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷派の五卿がこの延壽王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら大勢の勤皇の志士が去来して明治維新の策源地となった。


■心字池にかかる太鼓橋
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太宰府天満宮の参道に在る石の鳥居(南北朝時代の建立・九州最古の鳥居・県文化財)をくぐると、朱塗りの欄干が目に付く。心という字をかたどった神池、心字池にかかる太鼓橋である。この太鼓橋と直橋の三つの橋は仏教思想にいう過去現在未来の三世一念の相を現わし、この橋を渡ることによって三世の邪念を払うともいわれ、参拝者の身を清める橋でもある。
6月、東神苑の菖蒲池と、太鼓橋が架かる心字池の周辺に、いっせいに花菖蒲が開き、約40種3万本が、白、うす紫、紫の美しい花をつける。


■志賀社(重要文化財)
心字池の畔にある社で、祭神は海神、綿津見三柱神(わたつみみはしらのかみ)。海上安全の海の神として祀られている。長禄2年(1459)建立されたといわれ、精巧なつくりと変化のある屋根等全体としては美しい工芸品ともいうべきであり、国の重要文化財に指定されている。


■太宰府名物「梅が枝餅」
菅公が榎寺に謫居されていた際、安楽時の門前で老婆が餅を売っていた。公の境遇に同情して時折この店に迎え、また餅を持参しては公の無聊を慰めた。公が薨去された時、公の好物であったこの餅を梅の枝にさして霊柩に供えて送った。この故事にならい梅ヶ枝餅と称して売り出されたが、この餅に公の霊が通じたか梅ヶ枝餅を食うと病魔を防ぐに特効があるというので著名となった。人気の店には長蛇の列ができ、最近では、駅・空港でも求めることができるようになった。


■御神牛 
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承和12年(845)年6月25日、乙丑(きのとうし)の年生まれの菅公は、延喜3年(903)年2月25日に死去。ご遺言に「遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ」とあり、その牛が動かなくなったところを御墓所と定めた。それが現在の御本殿の地と言われている。文化2年(1805)乙丑の年に奉納されたこの神牛の臥牛像は、自分の身体と同じ神牛の部分を祈念を込めてお互いに撫でさすれば身体健在はもとより病気全快するといわれ、数多くの伝承が伝わっていて信仰の深さを知ることができる。


<写真/太宰府天満宮の楼門>
太宰府天満宮の楼門は国の重要文化財である

<写真/太宰府天満宮本殿>
太宰府天満宮は全国天満宮の総本山である。現在の本殿は天正19年(1591)小早川隆景の寄進により建てられたもの。

<写真/延壽王院>
現在、西高辻宮司邸である。

<写真/心字池と太鼓橋>
心字池は漢字の心を形どり、池の中では優雅に鯉が泳ぐ。

<写真/御神牛>
神牛の頭部を同じように撫でさすれば知恵が付くという言い伝えも。

2007/12/11 UPDATE

志賀島の金印

●世紀の発見!金印「漢倭奴国王」

博多湾の東に、細く長い砂洲の先端に連なる島がある。砂洲は香椎から約20キロメートル、海の中道として公園化され周年訪れる人の多いところだ。砂洲を抜け大橋を渡るとそこは歴史の島、志賀島。周囲11キロメートルほどの小さな島で事件はおこった。
もともとこの志賀島は、「万葉集」などの詩に詠まれたり、蒙古襲来の「元寇」や、 「古事記」・「日本書紀」に登場する海の守り神、「綿津見(わたつみ)の神の伝説」などで、その名が知られていた。

■真の発見者は、秀治と喜平!

時は、 江戸時代の天明4年(1784年)、現在の暦で4月12日頃。秀治と喜平という2人の農民が田の溝を作り直していると大きな石が出てきた。これを「かなでこ」で掘り外したところ、石の間に光るものを見つけたという。
れをひろいあげ水ですすいでよく見ると均整な印鑑のようなものであったため、その田の持ち主である百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていった。
今まで見たこともないような物品なので、甚兵衛はその兄が以前奉公していた福岡の豪商米屋才蔵を訪ねそれを見せたところ、金色に輝いていて重いので「これは純金にちがいない、鋳つぶして武具の飾りにでもしたら」とのことになった。
しかし、この画商と親しくしていた儒学者亀井南冥(かめいなんめい)がこれを見て、印面に掘られている「漢委奴国王」の5文字から、後漢書の記述を思い出した。中国の後漢書には、西暦57年(日本は弥生時代)に漢の皇帝「光武帝」が奴国(なこく)の使者に金印を渡したことが書いてある。そもそも日本(倭国)のことが記述として残っている事柄は、この後漢書の記述が最古。その記述にある金印が発見されたということは、逆を返せば、後漢書の信憑性も高まり、中国の歴史の上でも重要な品となったのだ。金印の読み方には、いくつかの説があるが、一般的には「漢の倭<委>の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)と読まれている。
卑弥呼も魏の国より「親魏倭王」の金印を授かっているが、これは西暦238年頃の話だから、これより約200年も古い。この金印は日本の歴史の始まりを示す貴重な品の一なのである。

■金印は流転して!
さて、これこそ「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」であろう・・というわけで金印はたちまち街中の話題になる。そして、「そんな貴重なものは早速お役所に差し出せ」ということに。
そこで、当時の志賀島村庄屋武蔵は「那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上ル口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出たのです。
ところが、亀井南冥は金印を自家の宝物にしようと思い、郡役所に15両で買いとりたいと申し出た。それが許されないと知ると、それでは100両出そうといったのです。そのため郡役所はたいそう驚き、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁にまで届け出た。
藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五十両を与えて金印を黒田家に収めた。それ以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されてきたのである。
金印は明治になって国宝に指定され昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていた。その後、昭和54年黒田家から福岡市に寄贈され、市美術館の開館とともにその黒田記念室に保管し、一般に展示公開されている。

■金印の意味とは?

印文は「漢」「委」「奴」「国」「王」の5文字が白文で彫られている、その解読のしかた如何によって金印のもつ意義が変わる。
発掘当時、亀井南冥は委奴を「ヤマト」と読み当時の天皇に授けられたものだろうとしていましたが、修猷館教授らは委奴とは日本国の古号であり「漢代の日本国王の印」と解釈していた。
その後、多くの学者は委奴を「イト」と読み倭人伝の「伊都国」の王に授けられたものだろうとしていましたが、のちに三宅米吉博士によって『漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王』と読む説が発表され、現在これが定説となっている。その意味は、委は倭の略字で日本国の古号であり奴は福岡地方の古地名だから『漢の国の属国である日本の福岡地方の国王』という意味に現在のところ解釈されている。

■なぜこの志賀島から出てきたのか?
志賀島は玄海灘の要害の島。瀬戸内海から筑紫へ或いは筑紫から壱岐、対馬を経て大陸に旅する人々が航海の安全を祈願した島だった。奴国の使者を大陸に導いたであろう阿曇族が住処とし、先進の文物を媒介することもあった志賀島は、私たち日本人の原点の島ともいえる。島に建つ志賀海(しかうみ)神社は、阿曇連(あづみのむらじ)らが奉斎した社であると古事記、日本書紀は伝える。
金印の発見地は、島の南部、能古島との海峡をのぞむ山腹にあり、記念碑が立っている。金印の実務的な用途も考えられず、重要な海峡に貴重な金印を埋納することによって、交易の発展や海上の安全を祈願したものであろうか。

この貴重な金印がどのようなわけで志賀島の西海岸に埋もれていたか、ということについて、以下のようないくつかの学説がある。
「王宮説」・・・王宮の跡だろうとの説
「墳墓説」・・・倭国王のお墓だろうとの説
「隠匿説」・・・当時日本国内が乱れたので、隠したのだろうとの説
「遺棄説」・・・日本を漢の属国扱いにした不届きな印は棄ててしまえというわけで海に棄てたのだとの説

ところが、王宮説にしても墳墓説にしても辺ぴな志賀島の西海岸にその所在をもとめることは不合理だと考え、学者たちがいろいろ試案した結果、隠匿説や遺棄説が出てきた。
それは「金印は奴国王あるいは伊都国王がもらったもの」とばかり思いこんでいたからのことで、もし金印が福岡市の南部か春日市あたりで出土しておれば「奴国王宮説・墳墓説」が堂々と通ったことでしょう。
また糸島地方のどこかそれらしい場所で発掘されていれば「伊都国王宮説・墳墓説」となったのではないでしょうか。
志賀島は周囲12キロ余り、面積5.87平方キロの小島ですが、博多湾を玄界灘の荒波から守るかのように延びた「海の中道」によって陸続きとなっている。

<写真/志賀島>
金印の発掘により、彗星のごとく古代ロマンの地として日本の歴史舞台に登場
周囲約12キロ、人口2000人あまり。夏の海水浴や釣りなどレジャー客で賑わう。

<写真/金印公園 >
金印が出土したと思われる場所に記念してつくられた 。

<写真/金印>
金印が出土したと思われる場所に記念してつくられた 。

<写真/金印の印面>
「漢委奴国王」文字が3行に渡って書かれている。

<写真/志賀海神社 > 綿津見三神を祀り阿曇族が依拠した社。歩射祭、御神幸祭など、祭事にも古色がみえる。

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