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2007/12/11 UPDATE

志賀島の金印

●世紀の発見!金印「漢倭奴国王」

博多湾の東に、細く長い砂洲の先端に連なる島がある。砂洲は香椎から約20キロメートル、海の中道として公園化され周年訪れる人の多いところだ。砂洲を抜け大橋を渡るとそこは歴史の島、志賀島。周囲11キロメートルほどの小さな島で事件はおこった。
もともとこの志賀島は、「万葉集」などの詩に詠まれたり、蒙古襲来の「元寇」や、 「古事記」・「日本書紀」に登場する海の守り神、「綿津見(わたつみ)の神の伝説」などで、その名が知られていた。

■真の発見者は、秀治と喜平!

時は、 江戸時代の天明4年(1784年)、現在の暦で4月12日頃。秀治と喜平という2人の農民が田の溝を作り直していると大きな石が出てきた。これを「かなでこ」で掘り外したところ、石の間に光るものを見つけたという。
れをひろいあげ水ですすいでよく見ると均整な印鑑のようなものであったため、その田の持ち主である百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていった。
今まで見たこともないような物品なので、甚兵衛はその兄が以前奉公していた福岡の豪商米屋才蔵を訪ねそれを見せたところ、金色に輝いていて重いので「これは純金にちがいない、鋳つぶして武具の飾りにでもしたら」とのことになった。
しかし、この画商と親しくしていた儒学者亀井南冥(かめいなんめい)がこれを見て、印面に掘られている「漢委奴国王」の5文字から、後漢書の記述を思い出した。中国の後漢書には、西暦57年(日本は弥生時代)に漢の皇帝「光武帝」が奴国(なこく)の使者に金印を渡したことが書いてある。そもそも日本(倭国)のことが記述として残っている事柄は、この後漢書の記述が最古。その記述にある金印が発見されたということは、逆を返せば、後漢書の信憑性も高まり、中国の歴史の上でも重要な品となったのだ。金印の読み方には、いくつかの説があるが、一般的には「漢の倭<委>の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)と読まれている。
卑弥呼も魏の国より「親魏倭王」の金印を授かっているが、これは西暦238年頃の話だから、これより約200年も古い。この金印は日本の歴史の始まりを示す貴重な品の一なのである。

■金印は流転して!
さて、これこそ「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」であろう・・というわけで金印はたちまち街中の話題になる。そして、「そんな貴重なものは早速お役所に差し出せ」ということに。
そこで、当時の志賀島村庄屋武蔵は「那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上ル口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出たのです。
ところが、亀井南冥は金印を自家の宝物にしようと思い、郡役所に15両で買いとりたいと申し出た。それが許されないと知ると、それでは100両出そうといったのです。そのため郡役所はたいそう驚き、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁にまで届け出た。
藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五十両を与えて金印を黒田家に収めた。それ以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されてきたのである。
金印は明治になって国宝に指定され昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていた。その後、昭和54年黒田家から福岡市に寄贈され、市美術館の開館とともにその黒田記念室に保管し、一般に展示公開されている。

■金印の意味とは?

印文は「漢」「委」「奴」「国」「王」の5文字が白文で彫られている、その解読のしかた如何によって金印のもつ意義が変わる。
発掘当時、亀井南冥は委奴を「ヤマト」と読み当時の天皇に授けられたものだろうとしていましたが、修猷館教授らは委奴とは日本国の古号であり「漢代の日本国王の印」と解釈していた。
その後、多くの学者は委奴を「イト」と読み倭人伝の「伊都国」の王に授けられたものだろうとしていましたが、のちに三宅米吉博士によって『漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王』と読む説が発表され、現在これが定説となっている。その意味は、委は倭の略字で日本国の古号であり奴は福岡地方の古地名だから『漢の国の属国である日本の福岡地方の国王』という意味に現在のところ解釈されている。

■なぜこの志賀島から出てきたのか?
志賀島は玄海灘の要害の島。瀬戸内海から筑紫へ或いは筑紫から壱岐、対馬を経て大陸に旅する人々が航海の安全を祈願した島だった。奴国の使者を大陸に導いたであろう阿曇族が住処とし、先進の文物を媒介することもあった志賀島は、私たち日本人の原点の島ともいえる。島に建つ志賀海(しかうみ)神社は、阿曇連(あづみのむらじ)らが奉斎した社であると古事記、日本書紀は伝える。
金印の発見地は、島の南部、能古島との海峡をのぞむ山腹にあり、記念碑が立っている。金印の実務的な用途も考えられず、重要な海峡に貴重な金印を埋納することによって、交易の発展や海上の安全を祈願したものであろうか。

この貴重な金印がどのようなわけで志賀島の西海岸に埋もれていたか、ということについて、以下のようないくつかの学説がある。
「王宮説」・・・王宮の跡だろうとの説
「墳墓説」・・・倭国王のお墓だろうとの説
「隠匿説」・・・当時日本国内が乱れたので、隠したのだろうとの説
「遺棄説」・・・日本を漢の属国扱いにした不届きな印は棄ててしまえというわけで海に棄てたのだとの説

ところが、王宮説にしても墳墓説にしても辺ぴな志賀島の西海岸にその所在をもとめることは不合理だと考え、学者たちがいろいろ試案した結果、隠匿説や遺棄説が出てきた。
それは「金印は奴国王あるいは伊都国王がもらったもの」とばかり思いこんでいたからのことで、もし金印が福岡市の南部か春日市あたりで出土しておれば「奴国王宮説・墳墓説」が堂々と通ったことでしょう。
また糸島地方のどこかそれらしい場所で発掘されていれば「伊都国王宮説・墳墓説」となったのではないでしょうか。
志賀島は周囲12キロ余り、面積5.87平方キロの小島ですが、博多湾を玄界灘の荒波から守るかのように延びた「海の中道」によって陸続きとなっている。

<写真/志賀島>
金印の発掘により、彗星のごとく古代ロマンの地として日本の歴史舞台に登場
周囲約12キロ、人口2000人あまり。夏の海水浴や釣りなどレジャー客で賑わう。

<写真/金印公園 >
金印が出土したと思われる場所に記念してつくられた 。

<写真/金印>
金印が出土したと思われる場所に記念してつくられた 。

<写真/金印の印面>
「漢委奴国王」文字が3行に渡って書かれている。

<写真/志賀海神社 > 綿津見三神を祀り阿曇族が依拠した社。歩射祭、御神幸祭など、祭事にも古色がみえる。

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